江戸時代(1819年)、美濃国可児郡土田村(現在の岐阜県可児市土田)で、
吹きガラス製造がはじまりました。
日本における吹きガラスの歴史上、1819年製造開始はかなり早い時期であり、また、
この技術がその後約200年間引き継がれているという史実は他に例がなく、
大変貴重であるということが言えます。
美濃国可児郡土田村で吹きガラス製造を始めたのは、石塚岩三郎(生年不詳、1867年逝去)という人物です。
下総の国(現在の千葉県)で武士の次男として生まれた岩三郎は、冒険心にあふれた青年でした。広い世界を見てみたいとの思いから旅に出て、遠く長崎でびいどろに出合いました。初めて見るその美しさに強烈に引き込まれた岩三郎は、ガラスづくりを生涯の仕事にしようと、苦労の末、秘伝といわれたびいどろ製法を習得しました。
中山道を通って故郷へ帰る途中、土田村で偶然にもびいどろの材料の硅石を発見し、故郷に帰ることなく生涯、土田村でびいどろをつくることになりました。
慶応3年(1867)に逝去した岩三郎のびいどろづくりは、子の文左衛門や弟子たちに引き継がれていきました。土田村で70年続いたびいどろづくりは、明治21年(1888)、交通の便などから名古屋に進出し、現在は愛知県岩倉市に本社を置く「石塚硝子株式会社」として、国内でも屈指のガラス製造会社となっています。
江戸時代、可児郡土田村でガラスがつくられていた史実は、『日本近世窯業史』(大日本窯業協会 1917年)、『日本ガラス工業史』(日本ガラス工業史編集委員会 1949年)、『ガラスとともに150年』(石塚硝子株式会社 1963年)、『日本の硝子史』(ドロシィ・ブレィア著 1998年)などに記述されています。
しかし石塚岩三郎のガラスについて現代残っている資料は、材料購入のための貸付け書である覚書・「新御殿様御用為硝子吹立方」(しんおとのさまごようのためのびいどろふきたてかた)と、土田中町の工場跡地から出土した「坩堝」(るつぼ)だけです。
手を尽くして調べましたが、ガラスの現物は現代のところまだ見つかっていません。
尾張のお殿様からの注文の品をつくるために、材料購入費を村から借りた時の覚書。一部ガラスの原料と金額が記述されているため、江戸時代末期のガラス製造について、原料と具体的な経費がわかる大変貴重な資料といえます。
可児市土田中町(石塚硝子工場跡地、土田渡から移転)から出土しました。
ガラスが付着しています。
日本のガラス史では有名な資料。
高さ 26㎝
吹きガラスの技法を使ってガラスを製造する方法は、17世紀、長崎で始まったとされていますが、正確な起源を示す資料はまだ見つかっていません。1712年には、大坂で多くつくられていたことが記録されています。18世紀には、京都でも吹きガラス製造が行われ、その後19世紀には、江戸、美濃で始まったとされています。よって美濃国可児郡土田村での製造開始は、全国でも4、5番目に早い時期といえます。
平成11年にオープンしたわくわく体験館のガラス工房は、日本のガラス史にも残る石塚岩三郎の貴重な吹きガラス製造の歴史を多くの人に知っていただくために、岩三郎のガラスを再現することの必要性を強く感じました。そこで、岩三郎の作っていたガラスを「土田のびいどろ」と名付け、平成17年6月、岩三郎が可児郡土田村で生涯、ガラスを製造することになった理由の「良質の硅石」を探し求めることから、再現事業をスタートしました。
平成17年6月、できる限り手を尽くしましたが、岩三郎のびいどろと思われる作品は残っていませんでした。そこで、江戸時代のガラスについての研究書や長崎びいどろの復元に関する資料を手掛かりに、平成18年秋頃から、可児のびいどろの原料の調査に入りました。
一般にガラスの原料は主に、珪砂とソーダ灰と石灰です。
珪砂(けいしゃ) SiO2
ガラスの主成分シリカ
珪砂だけを溶融するには、高い温度(1700℃以上)が必要。
一般に砂状の珪砂、岩石状の珪石、珪岩として産出される。
いずれの場合も不純物(主に鉄分)が少ないことが良い珪砂の条件。
ソーダ灰(炭酸ナトリウム) Na2CO3
溶融温度を下げるために用いる。
ソーダ分の多いガラスは軟らかく(軟質硝子)、びん、板ガラスなどに
利用される。
石灰石(炭酸カルシウム) Ca2CO3
珪砂とソーダ灰で作るガラスは、非常に低い温度で溶融できるが、
出来上がったガラスは簡単に水に溶けてしまう。水に溶けないよう
に耐水性を持たせて、常温で固化させる材料の一つが、この石灰石。
ところが、吹きガラスの技法で作られるようになった長崎びいどろは、ヨーロッパのソーダガラスではなく、中国宋代にまでさかのぼる金属鉛を原料とするガラスなのです。ということは、中国系の原料を使う方法と、西洋の知識が組み合わされて、長崎びいどろが作られるようになったと考えられます。
石粉 SiO2、二酸化珪素、ガラスの骨格成分
金属鉛 ガラスの骨格成分
硝石 ガラスの溶融温度を下げ、溶融を助け
る。
硼砂 ガラスの骨格成分。ガラスの質を高め
るために用いる。
亜鉛 鉛のかすを取り除くために用いる。
資 料 | 二酸化珪素分 | 産出場所 |
日本近世窯業史 (1917年)p.9、p.10 |
ガラス原石・原料 |
古城山・恵那郡苗木 |
石塚硝子株式会社の沿革(1964年以前) | 良質硅石 | 古城山(可児郡土田村) |
社史(1968年) p.9 |
良質の硅石 | 多治見方面 |
可児町史(1980年)p.329 | 良質の硅石 | 土田山の一角 |
土田の歴史に思う(1984年)p.117 | 良質の硅石 | 木曽川べり |
日本の硝子史(1998年)p.213 | 非常に優れた無水珪酸源 | 美濃の国 |
三代石塚岩三郎が生前に口述した『石塚硝子株式会社の沿革』には、「美濃可児郡土田村古城山に良質硅石を発見したるも粉砕の方法に困り・・・」と述べられています。
『可児町史』では、「硅石探しが始まり、木曽川沿いに進めているうちに、良質の硅石を土田山の一角で発見し、土田の渡りで念願のビードロづくりを始めた」と記述されています。
金子亀遊著の『土田の歴史に思う』は、「木曽川べりで、硅石の調査を始め、そのうちに、良質の硅石を発見し」と記述しています。
江戸時代のガラスの主要成分である石粉の原料となる良質の硅石とは、どのような岩石なのでしょうか。
長崎びいどろに使われたのは石英です。石英の組成はほとんど純粋な二酸化珪素ですから、ガラスの原料としては最も適しています。
日本の江戸時代のガラス研究の第一人者であり、神戸松蔭女子学院大学名誉教授の棚橋淳二氏は「江戸時代の技法によるガラス素地の製造」で、江戸時代の大坂の硝子工匠が用いていたのは、養老周辺の火打石だったと述べておられます。ここの火打石はチャートです。チャートは二酸化珪素の割合が90%を越えるもので、やはりガラス作りには優れた原料といえます。
平成18年12月、木曽川周辺のフィールド調査の結果、石英は見つからず、石英が多く含まれる花崗岩と、チャートと思われる石を採集しました。形、見た目の表面の色、きめの粗さ、それぞれの鉱物の混ざり具合などで分類し、溶けやすくなる状態まで細かくして、それにソーダ灰、石灰を調合し(現代のガラスの調合)、陶芸の窯で溶かしてみました。
23種類に分類した石の粉の溶け具合、着色度、透明度を調べた結果、薄緑の着色は見られたものの、チャートの溶融状態が良好に見えました。そこで岐阜県博物館の石の専門家木澤慶和氏と石塚硝子株式会社の研究所に席を置かれていた経営企画部長(平成19年当時)大橋茂夫氏からのアドバイスを得て、この地のチャートはガラス質を作る十分な成分を有しているという結論を得ました。可児市の鳩吹山一帯にチャート層は分布しています。
さらに、無色透明に近いガラスを作るためには、色を抜くための作業が必要です。江戸時代には、色を抜くための化学的な方法を考えるより、なるべく初めから他の鉱物の混入を防ぎ、色が出ない方法を取ったのではないだろうか。それには、白いチャートを使うがいいのではないかと、私たちは考えました。
そこで、平成19年3月、鳩吹山にいつも登っている受講生の古川ご夫妻の案内のもと、チャート層であるこの山に白いチャートを求めて登りました。
山肌に点在する白いチャートを容易に発見することができた時は心が弾みました。果たして、岩三郎は鳩吹山一帯に分布する白いチャートを発見して、この地でガラス製造ができると判断し、本格的にガラス製造を始めたのでしょうか。これからの実験で検証しなければならないと決意し、山を下りました。
江戸時代の和ガラス製造は、現代のガラス製造の経験からは想像もつかない、複雑で困難なものでした。手探り状態で、棚橋淳二氏の論文「江戸時代の技法によるガラス素地の製造」を何度も読み返しましたが、失敗の連続でした。
平成19年5月、棚橋氏の論文「江戸時代の技法によるガラス素地の製造」における「種石の煆焼(かしょう)・急冷・乾燥」の項を参考にしながら、鳩吹山で採集したチャートを電気炉で熱した後、水に入れ砕き、その後、陶芸用の電動臼でつき、篩(ふるい)にかけて石粉にしました。